2019/12/14

自分に価値がないと思ったときに思い出すべきこと

価値

自分には価値がない、生きている意味があるのかと思うことは弱いことではない。

それは本当は自分は何をすべきなのか、どう生きるべきなのかという問いの時期に差し掛かっただけなのだと思う。

それでも、それを弱いと思ってしまうのは、私たちが本来弱いものだから。

しかし、迷いや弱さと自分の価値を混同してはいけない。

私たちが思う価値とは社会的価値のことを指し示すことが多い。それは人から必要とされているか、評価されているかを、自分が感じれるかどうか、だ。

そのことと、本来の自分の価値はまったく種類が違う。

今回は私が思う価値について書いてみます。そして、それが誰かのヒントになればと思う。

社会的価値は物の値段と同じようなもの

あなたは何かを買うときに、その値段と商品の価値を無意識に評価する。それは自然なことだ。それは、イメージを持つことと大差ない。そしてそのイメージが自分に合うのか合わないのかを判断する。しかし、あなたが「合わない」と思ったものに価値がないわけではない。それは誰かにとって「合う」もので、それを着る人には「似合い」、価値のあるものになる。また、誰にも着られないとしても、そのものには「存在」している事実がある。私たちも同様で、ただ存在していて、そして生きている。

人に評価されることは値段をつけられることに似ている。それは社会的価値だ。

価値を見失うとき

(1)人との人間関係が築けないとき

友達関係、仕事関係など、人と接するときに壁を感じることは多々ある。距離を感じることも。人は無意識で相手との距離の取り方を計算している。人に受け入れられていないと感じるとき、私たちは孤独を感じるが、相手は実はそこまで考えていない。ただ、お互いの関係の深さに沿った対応をしているだけだ。

それを正しく理解していないと、人との距離や壁にたびたび傷ついてしまう。「私は受け入れられていない」「うまく人と接せない」コミュニケーションが苦手だ」など、マイナス面の思考に支配される。それは過剰反応だと知らなければならない。その相手とはまだそこまでの関係ではないだけなのだ。

 友人がいない、家族がいない、職場で孤独と嘆くときには、自問してみてほしい。その寂しさは独りよがりではないか?相手は気づいているのか?気づいていないなら、それはあなたが思っているだけで真実じゃない。

それを変えたいとき、自分が変わろうと思うのは間違いだと私は思う。相手に対して自分から心を開いて接することが、親しくなる近道なのだ。変わらなければいけないとしたら、すでに関係が出来上がった相手に、「こういうところを変えてほしい」とお願いされたときだけだ。

あなたは、相手に求めるよりも前に、自分から心を開いて相手に接しているだろうか?

(2)トラウマによるもの

いじめやDVによって、心に深い傷を負っている人には、自分の価値を自覚するのは難しい。それは心の奥深くに根付いている。自分の価値や尊厳など、叩き壊され、つぶされてしまったからだ。また同じように傷を負うことを恐れるあまり、人には近づけないし、近づいても怯えのために上手く接することができない。

こういう人々に必要なのは友達ではない。まずは自分を愛せるようになることだ。

自分を癒すことから始めなければならない。価値がないと思うことさえも否定してはならい。価値がないと思うことでさえ、その人を癒すからだ。価値がない自分を労わる気持ちから、徐々に自分を許すことを覚えるしかない。

そして、いつしか気づいてほしい。自分をあまり卑下して見ない人がいることに。なぜか親切にしてくれる人がいることに。なんだかんだと近くにいてくれる人がいることに。

(3)目的がないとき(楽しみがないとき)

目的がない、何もしたいことがないと言う人がいる。私が思うところであはあるが、そういう人は、厳しい親に育てられた、指示をされて育った人が多いのではないかと思う。自分が何かをしたい、やらなければ、と考える前に指示が与えられ、義務が与えられ、行動させられる。そうして育った人は自我が育たない。かくいう私もそういう子供だった。

私は自分の価値などないと思っていたし、さっさと死にたかった。生きている意味などなかったからだ。

目的がないことは、何も望みがないことは、生きていながら死んでいるようなもので、私は生きていることが嫌でたまらなかった。生きていることさえ、親に強制させられていると思っていたから。

そして、目的や楽しみがない人にまれに天涯孤独に育った人がいる。そういう人は一人であることをもうすでに知っていて、平和に生きていられるだけで、すでに満足しているので、価値について考えない。けれど、天涯孤独だったことは、その心の奥に価値の土台がない。これはまれなパターンであるが、私の知り合いに一人だけいた。

彼は、自分に価値があるなんて全く思っていないが、悲観してもいなかった。そもそもの土台がなかった。だけど、彼は楽しそうには生きていた。だから、彼が死んだとき知り合いはみんな悲しんだけれど、私は「ああ、そうか」と思っただけだ。

彼は死ぬことを恐れていなかった。でも生きる意味はあまりなかった。だから死んだのだった。

(4)容姿に自身がない

容姿にまったく自身がないために、価値がないと思ってしまうのは女性に多い。身体や顔は整形でもしなければ根本は変えることができないので、解決するのは心の持ちようしかなくなる。

私は「不細工」だと言われて育って、いじめられたこともあったため、思春期の頃に自分は不細工だと思っていたし、容姿に自信はまったくなかった。

しかし、二十歳を超えると、ある程度身なりをキレイにしていれば、異性は寄ってくる。それが身体目当てだったとしても。そういう時に、容姿はただの物差しでしかないのだと悟った。長い年月を経て、私は「もとは不細工だが、メイクをしてキレイな服を着れば、それなりに見える女」という評価を自分に下したら、容姿に対するコンプレックスは低下した。

要は人に見向きされると、少しは自分に価値があると思えるという単純な話だ。

女子には外見を整えることを諦めないでいてほしいと思う。小細工はいくらでもできるのだ。外見を装うことも。それは女の武器だと私は思う。

手をかければ、それなりになるってことを知ってほしい。そして、外見を変えれば人の反応も変わり、自分の心境も変わる。まずは、メイクを上手になろう。欠点を隠し、キレイに見せることができる手っ取り早い方法はメイクしかない。

「価値」とは、自分が自分でしかないと知ること

ここまで書くと、「そんなこと言っても、人に見向きもされない私はどうしたらいいんですか」という声が聞こえてくる。昔の私なら「恵まれてる人が何か言ってる」くらいに鼻であしらったことだろう。とってもよくわかる心境だ。

でも、でも、だ。

価値なんてない。意味なんてない。何もかも壊れてしまえばいい。

そんなふうに生きていた私が、いまやこうなったのだ。可能性はあるとしか私には言えない。人は変われるのではなく、ただ、当たり前に変わっていくのだ。

ただ、変わらない部分を抱えて。変わっていく。

社会的価値に目を向けてしまうのは仕方がない。私だって今も人の目には怯えることはある。でも、そうだとしても、自分は自分のままなのだ。寝て起きたって自分のままなのだ。

諦めるしかない。自分が自分だってことは。

腹をくくれ。覚悟を決めろ。自分は自分で生きていくしかない。

そう思ったら、それが自分の価値になった、私の話。

「価値」とは「自分」が「自分」であることだけだと理解したときに得れるもの、と私は思っています。


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