2018/03/19
最終更新日:2018/04/20

母に片づけをお願いする前に「終活」とは何かを学ぶべきだった


母に実家の片付けをお願いしたことがある。私の家ではなく母の家なのにだ。
今、考えればなんとも失礼でひどい話だが、両親がもしいなくなったときに実家の大量の私物を片付けることを考えたら「とても一人ではできない」と思った。それは1冊の「終活」に関する本を読んだからだ。しかし、私はのちにこのときの母への仕打ちを悔やみ、何日も涙で過ごした。

「終活」とは、愛情と寂しさが入り混じる、大事な思い出の片付けなのだ。
そう、それはずっと擦れられなかった大好きだった人の写真を、やっと捨てる時の、あの切なさに似ているのだろう。

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終活とは

ウィキペディアでは、終活は以下のように記載されている。

❝終活とは「人生の終わりのための活動」、つまり人間が人生の最後を迎えるにあたってそこに向けた様々な準備をすることである。❞

物理的には以下のようなものが主に挙げられる。
・将来の医療や介護計画を立てる。
・財産を整理しておく。
・相続の内容を決め、遺言を書く。
・お墓や葬儀について決める。
・身辺整理を行う

今でこそ「終活」という言葉が使われるようになったが、このような準備は昔から行われていたことだろうと思う。
ただ昔と違って現代は社会の流れが早く、時間があっという間に過ぎるように感じてしまう。また、昔よりも物が溢れる社会になった分、たくさんのものを所有している人が多く、亡くなった後の片付けが大変な事例が増えていることも要因だろう。

家を代々継いでいく人も少なくなった。土地や家の管理や売買も増えたのだろう。そうして、昔よりもやらなければならないことが増えたからこそ「終活」という言葉が生まれ、事前に準備をしていくように意識する社会になったのだと思う。

自分本位に終活を要求してはいけない

私が冒頭で話したエピソードは、実際にあったことだ。私の母は以前から「自分がいなくなった後」のことを話す人だったので、笑い飛ばしただけで終わったが、「終活」を要求することで、傷ついたり怒ったりする人もいると思うので、むやみに「終活」を勧めるのはオススメしない。人によっては、ないがしろにされていると思うかもしれないからだ。

また、私自身思ったことだが、終活はその人本人がするものなのだ
それは残った遺族に困惑や手間をとらせない等、残される家族のためにもなるが、持っている財産も、老後の医療や介護などの生活に関しても、それは本来は当人が決めることなのだ。たとえ家族でも、その権利は奪ってはいけない。

終活を意識する意義はある

しかし、実際にこういった準備は遺族にとっては非常に助かるものであり、遺言や残されたものが遺族の心を慰める宝物になったりする場合もある。そして、本人にとっても自分の人生を見つめ返すことで、やりのこした夢、思い残した何か、まだ癒されない傷や、人生の中で得た貴重なものなど、その人の心を整理することに役立つ行為と言えるだろう。

できるだけ前向きに、そして悔いなく残りの人生を生きるためにポジティブに活用できれば、それは素晴らしいものになるかもしれない。だとしたら、私たちは終わりのためではなく、残りの素晴らしい時を生きるために、提案したりアドバイスすることはできるだろう。

たとえば、家を老後使いやすいようにしてみたり、部屋を片付けて「趣味の部屋」などを作ってもいい。 両親に実はやりたかったことがないか、聞いてみるのはどうだろうか。それを一緒にやってあげれなくても、楽しい想像をさせてあげれば、行動をいずれ行動を起こすときに、思い出す要素になるかもしれない。

私たち子供にとっても、一緒に過ごした思い出が増えることになり、それはいつか宝物となるだろう。

悲しみや寂しさよりも、明るい展望や精神的な依存を手放すことを共有する

私は母に「自分がいなくなった後」の話をされるのが、たまらなく嫌だった。そして、母がいなくなった後の家の片付けなんて、より一層嫌だった。泣いて片付けをする自分を想像しただけで、悲しくなってしまったからだ。私のように弱い人間には、生前にこのような話をされるのは本当に悲しくなってしまい、いけない。

その時に気付いたのは、母はとても強い人であり、悲しさや寂しさを胸にしまい、決意して物事をこなす人であった。しかし、「終活」を喜々として話す母についていけなかったのは確かだが、ある時少しだけ私も気づくものがあった。

それは久しぶりに実家に帰ったときのこと。
子供たちが使っていた人を全部片づけたと母が見せてくれた部屋は、すっきりとして風が通る空間になっていた。寂しい空間になると思っていたのに、それはすがすがしい空気だったのを覚えている。

何かを手放すことは、心に空間を作るのだと思う。
すっきりした心で残りの人生を歩めるのなら、それは良いことなのだと思った。
私にはとても悲しいけれど、これはおそらく自分のための涙なのだろう。

本当の「終活」とは、よく生きること

こうして私が学んだことは、「終活」とは「残りの人生をより良く生きる」ということだ。人生の終わりにあたって、人々が後悔するとしたら、どれだけお金を持っているかや、どれだけ成功したなどではないだろう。おそらく私なら、「本当はやりたかったのに諦めた何か」だったり、「もっと、大胆に生きれば良かった」などと思う気がする。

残された日々はそう多くはないかもしれないが、「終活」を意識することで忘れていた望みに気づき、手を付けることができるかもしれない。向き合えなかった家族と話し合うきっかけになるかもしれない。大事な人の記憶が胸の奥に蘇ってくるかもしれない。

苦しいことや悲しいことしか、頭に浮かばないという人がもしいたら、残りの時間で自分を癒してほしいと思う。一人でいたくないと思ったら、今どんどんと増えているホーム型の施設に早め入るのも一つの手だ。同じ境遇の人々と穏やかな生活が望めるかもしれない。

今後も高齢者が増えていく社会では、よりいっそう公的なサポートやNGO活動も増えていくだろう。孤独に打ちひしがれず、温かさを求めて動いてみてほしいと思う。人々が人生の終わりに癒される、そういう社会になってほしいと心から思う。

この人生は、「最大限に生きるために用意されたもの」ということを、私たちはいつでも忘れてはいけない。


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