少し前に感じたことがある。
目の前に、どんなものでもいいから目的がないと、生きる理由がなくなってしまう。
これは、今頑張っていることで将来の可能性を広げようとしている私に、友人が「あんたみたいなクールな人間が人に尽くす仕事が向いているとは思えない。一度よく考えてみたら。」と酔った勢いで言ったことが、私の土台をぐらつかせたときに思ったこと。
私は、愛情を否定しながら育った。
親の愛情を理解できなかったから。
そのためにか、もともと生きる意味みたいなものはなかった。
そこで、成長していくにつれて、私は目の前にやりたいことや目的を設定するようになった。そうすると、目の前のことが楽しかったり大変だったり、夢中になったりしているうちに生きていけた。
しかし、歳を取るにつれ活動的な部分は少なくなっていき、落ち着いた生活を望むようになると、夢中なものやめまぐるしい生活から遠ざかってしまった。
私は仕事に熱中することにしたが、病気や手術のために仕事を挫折したときから、不安を感じるようになった。
何をして生きていったらいいのだろう。
暗い闇の中を手探りで探るような1年が過ぎ、私は哲学や精神世界、神秘主義に傾倒し、心理学や人の精神を勉強することに決めた。
しかし、それさえも無意味というなら、何が私にあるだろう。
「誰も私に生きろなんて言ってない」
ずっとあった不安が浮き彫りになった気がした。
そこで、今までの私が経験から得た、「どうして生きるのか」「なぜ私は私で生まれたのか」について、ここに記しておこうと思った。
これは私の一部の価値観。
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一人で生きるのは私の運命なのか?
ずっと一人で生きていると、友人がいても家族がいても孤独を感じる。そばにいる人がいないからだ。
そうしているうちに、私だけでなくこう思う人は多いだろう。
「このまま一人で歳を取りながら生きていくのかなぁ。」
それがたとえば運命だというなら。それが生まれる前に選んだ課題だというのなら。
それは受け入れるべきものなんだろう。
それでも、選択肢は無数にあって。
それこそ、誰でもいいならそばにいてくれる人はいるかもしれない。
もしかしたら。
でも、それを選べないのは自分の選択たのだから、きっと私はこうなのだろうと頭の片隅で俯瞰し、諦めなのか達観なのか冷静な目で生きている。
それでも、ふと思う。
運命なんてないと思う。
あるとしたら、それは捨てれない自分を抱えていることで動けなくなっているだけ。
受け入れれなくなっているだけなのだと。
それでも自分を変えれないなら。
変われないなら。
私が出した答えはこうだ。
逃げるしかない。逃げ続けるしかない。
一生だって弱い自分から逃げてやる。
それは、弱い自分と向き合い続けるということど同義だと思った。
行動は変えれても、持って生まれた性質は変わらない
私は弱い自分がずっと嫌だった。
両親を憎み、家族を避けていても、家族から遠く離れられないでいた。
一人になるのが怖かった。
一人で生きていても、ほとんど合わなくても、つながりが何もなくなってしまうと思うと怖くて、兄弟の中で私だけが両親の目の届く地域にとどまり続けた。
それでも友情を知り、愛情を知り、人との交流をうまくできるようになっても、私には一つだけ欠陥があったのだ。
自分の要望を人にお願いできない。
つまり、甘えることができない。
我儘を言うなんてもってのほかだ。
仕事先の友人とご飯が食べたいなあと思っても、私は言わない。
相手の都合もあるだろうし、そんな気分じゃないかもしれない。
もしかしたら、自分と食事をすることは相手にとってそこまで楽しいわけではないかもしれない。
そんなことを瞬時に頭の中で想像しながら、私は一言も口に出さない。
友人にも恋人にもそうであった。
それは我慢しているというのとは全然違った。
ただ、伝えるということさえ、しないのが当たり前なだけだ。
どんなに人とうまく付き合えるようになっても、コミュニケーションが得意になっても、自分の要望はささいなものだから伝えれない。
どんなに大人になってもそれは変わらない。
変えようと、変えなければいけないと努力した時期があったが、それは徒労に終わった。
うまくいかなかった。
私はもういいか、と思った。
私はそういう人間で、それを努力するほうが無理なことに思えた。
それは私の性質だった。
だから、これを読んでくれた誰かも、自分の欠点だと思うところを無理に変える必要はないと言いたい。
それも含めての自分なのだから。
この身体を選んで生まれてきたということ
運命のところで書いたが、精神世界の本を飽きるほどに読んで、そうかもしれないと思ったことは、人はやはり今の自分の魂(精神)や身体を選んで生まれてきたのだろう。
だって、そうじゃない?って思う。
どうせ生まれるなら、男ならかっこよく、女なら美人に、そして才能もあって、性格も良く、異性にモテて、仕事や勉強もそつなくこなせて・・・って、そういう風な素質を持って生まれることを選ぶだろう。
なのに、なんで私はこういう人間に生まれて、そして成長したのか!?
私は神様は信じるけれど、神様が自分の全部を決めているなんて信じていない。
生まれるのもやっぱり自分でなにかしら選んで決めたのだろう。
だったら、これは試練や苦しみや痛みを持つことを、そういう経験をすることを踏まえた上で私は私として生きる人生を選んだのだろうと思う。
そうでなければ、取り返しがつかないじゃないか。
そうでなければ、変えていくことさえできないじゃないか。
誰かの手の上で踊らされる人生なら、生きる意味なんてもうない。
生きる意味なんてないと思ってきた私は、生きる理由を探してきた。
生きる理由を探すことさえ、誰かが決めたものなら、無意味になってしまう。
そんなのはつまらないし、どうしようもない、死ぬ権利さえない。
ただの人形だ。
だったらやっぱり、これは自分の決めたことで、自分の身体で、自分の魂なのだから、責任は自分で取りたいとそう思う。
どうして生きるのか
誰も私に生きろなんて言ってない。
つまり、生きる必要はないわけだ。
でも、いつの間にか死なない理由はできた。
それは、「多分、泣く人がいる」というものだった。
憎んでいた両親のことを大人になって理解したとき、確かに愛情を持たれているのだと思ったとき、友人が自分を大事に思っているといったとき、昔、恋人が私がいないと癒しがないと言ったとき。
私が死んだら、泣くだろう。
もしかして泣かなくても、悲しむだろう。
いつかは忘れるだろうけど、そのときは悲しいだろう。
そんなことだ。
でも、生きる理由は今もわかってない。
とりあえず、目先にやることを設定するようにしている。
そうすると考えなくてすむからだ。
どうしようもなく生きたいとは思わないけれど、死ぬのは惜しいな、というくらいには楽しいことを経験したし、愛された思い出もできた。
だから、もう一度、同じようなものを経験できたらいいなぁ、とそう思う。
そういう、少しばかりの期待が私を生きさせてると言える。
みんなはどうなのだろうか。
きっと「生きる理由がない」とか「もう死にたい」とか、そういう人はいっぱいいるだろう。私にはそれに答えることはできないけれど、「生きてたら良いこともあるよ」なんて無責任なことも言えないけれど。
とりあえず死なない理由を考えてみてはどうだろう。
だって、死にたいと思っても、心臓は勝手に動いているし、肺は空気を取り込んでいる。
お腹は空くし、性欲もあるし、喉もかわく。
なんで身体は動いているのか。
生きろと言っているのか。
可能性を捨てるなと私には聞こえる。
死ぬのは怖い。パニック障害だった私は、心臓が止まるのが一番怖い。
それが一番、死にたくない理由だったりする。
そうして、中学のときは自殺未遂なんて怖くてできなかった。
だったら、もうなんでもいいから生きるしかないという終着点に落ち着いた。
そして、生きるなら、少しでもいい目にあいたい。
たまにでいーから。ときどきでいーから。
楽しいなあ、とか、やすらぐなあ、とか、まあ悪くないんじゃない?とか、そいういう気分を味わえればいいなと思う。
もう、ある意味オタクとなって、好きな漫画を一年中読み続けるとか、ゲームを片っ端からやりこなしてニートになるとか、気に入ったアーティストの音楽を毎日youtubeで眺めるとか、もう男ならAVをかたっぱしから見て、毎日一人エッチに励むのでもいいんではないだろうか。
それさえも、生きているといえるのだから。
「こんなんじゃダメだ」なんて、私は毎日思っているから。
それでも、生きてるだけで、なんかやれることもある。
一人よがりの楽しみでいいじゃないかとさえ思う。
私たちは、くだらない、ささいなこと、あってもなくてもいいようなことを、やれるのだ。
私の目は漫画や小説やテレビを見ることができ、私の耳は音楽を聞けて、私の手はたとえば動物の頭をなでたり、料理をしたり、携帯をいじってSNSを眺めれるし、舌は美味しいものを食べることができる。口は誰かと話せるし、恋人なんていれば、愛してるということだってできる、照れなければ。いないけど。
足は立って動けるから、散歩に行けるし、ツタヤに映画を借りにいける。
ゲームだって手がないとできないし。
一人エッチも手がいるよね?(18禁ですな)
鼻は香水の匂いをかげたり、ご飯の匂いにそそられる。
ベッドで布団に包まれるのも身体がないと無理だし。
桜の花も紅葉も、雪も、太陽も、青空も、誰かの笑顔を見るのも、目があってこそだ。
それが生きるってことだと思う。
そんなたあいもないことをするために、私たちは生まれてきたのだということでいいんじゃないだろうか。
さあ、明日は何をしよう。
好きな漫画を借りにいこう。
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